
私が生まれ育った瀬戸内海の周囲5.4kmの小さな島には、当時約4000人が住んでいた。
私が子どもの頃、島の暮らしぶりは質素だったと思う。
島と言うより、国全体がそうだった時代だろう。
7人兄弟の5番目として生まれた父親は、戦後無事に復員したが、島には職はなく、関西に出稼ぎをしていた。
その頃の島の父親たちは、大勢の家族を養うためにほとんどが出稼ぎであった。
我が家は、トタン一枚の屋根が風で飛ばされないようにと石を乗せて、針金でそのトタンを固定していた。
家の外壁はコールタール塗り板の鎧張り。中はワラを入れた剥き出しの土壁だった。これが崩れないようと油紙を貼り付けていた。
六畳と四畳半、そして二畳くらいの食事をする場所。
雨水を溜めた井戸、泥で作った粗末なカマドの煮炊きする小屋…。
ここで5〜6人が暮らしていた。

その頃島は自家発電で、夕方になると灯りが点く。
我が家といえば、集落から少し離れたところに建てたものだから、電気を引くにはお金がかかるということで、長い間ランプの生活だった。
島の生活で何が困ったかと言うと、水である。
瀬戸内海は雨が少ない。島には当然川はない。
井戸も水が湧くわけでもない。
我が家に風呂はなく、母屋にもらい風呂である。
父方へ、母方へ、と時々家族揃って出かけた。
(風呂の順番を待つ間、母屋の居間にかかった日めくりが西暦1961となっていて、「あっ逆から読んでも1961だ…」と思ったのを今でも覚えている。そう、そのとき私は11歳だったのだ)

島はイワシ漁で賑わっていた時代だ。
高台にある私の家から海を見下ろすと、イワシの大群で海の色が違う。
真夏の太陽に照らされ、海が銀色に光る。
魚は豊富に獲れた。よく食べた。
島の畑は麦と芋の二毛作だった。
麦が実る頃、島は黄金色の島になる。
芋等を保存するために、床下に穴蔵が掘ってある。
麦わらを敷き詰め、そこに生の芋を保存。
これが我が家の主食の一つだった。
芋は外は白っぽく(なぜか、これを「アメリカ芋」と母は呼んでいた)ふかすと中身が黄色く、蜜が滴り落ちる。
「甘い!」、あの味は今でも鮮明に覚えている。
イワシに味噌をつけたオカズ、麦飯、うどん…。
食に関して今思い起こせば、粗末で質素、まさに貧しい生活、食事…。
でも考えてみれば、あの頃それが「貧乏だ」とか「不味い飯…」とか、思ったことは一度もない。
むしろ「美味い!」「あぁ〜腹いっぱい!」の記憶ばかりだ。
「時代は変わった」とは言え、心も身体も随分贅沢になったものだ。
食べたいものはよほど高級でなければ、いつでも何でも食べられる。
時代の流れの中で、いつのまにか私もそうなった。
しかし田舎暮らしをし始めて、その考えは少しずつ戻りつつある。
ふさふさの葉っぱのついた大根を100円で買い求め、葉はイリコと炒めて酒の肴か、白ご飯に振りかけて食す。
何本かは切り干し大根にしてみよう。
今が旬の金時芋、安い!
これも太陽の恵みを受けて、美味しさが増す。
そして、土と光の恵みを頂こう。